前回のブログ記事( 「お前はもう死んでいる!笑」:時間など本来はない珍説論 )の続編みたいな感じです。
ここで、ふと思うに、そもそも「生や死はないのではないか」と僕は最近考えるようになりました。
まずは“生“(^^)♪
僕は約50年前に赤ちゃんとして江別市で産まれました(正確には札幌市豊平区の産婦人科で産まれたんだったかな♪)。でも僕は(もちろんなんですが)全然記憶にないです!笑。ほぼすべての人たち(赤ん坊)って生まれた瞬間も含め、数カ月、いや、1~2年の記憶って無いはず。泣きたい時に夜泣きし、おしっこやうんこをオムツにして、よちよち歩きをしている … これを1~2歳くらいまでは“無意識“に行っているのですね。
つまり、“生“はない。「○年○月○日 に 産(生)まれたよ!」という“概念“でしかない。そんな風に僕は思い始めてきたんですよね。そもそも自己認識がない段階では「生」とすら言えないのでは?といったところでございますかね(^^;)。
次に“死“(^^;)♪
これも「生」と同じように、実は「死ぬ瞬間」というものは本人には認識できないのではないか?と僕は思うんですよね。厳密に言えば、死ぬと定義される少し前から意識がなくなるはずです。もちろん、人の死に方によって違いはありますが、数時間前、数日前、急性の症状なら数分前から意識がなくなるケースが多いでしょう。
つまり、“死“はない。これまた「生」の場合と同じく、「○年○月○日に死にましたよ!」という“概念“でしかない。あくまで周囲がそう定義しているだけであって、本人にとっては認識できないものなんです。そもそも自己認識がない段階では「死」とすら言えないのでは?といったところでございますかね(^^;)。
そして!ここからがポイントなのですが、だったら“死“って怖くないのでは?という解釈もできるんです。
例えば、多くの人が癌を恐れますが、そもそも癌で亡くなる場合、おそらく数日前から昏睡状態になり、意識がほぼなくなるはずです。そう考えると、「死の瞬間の苦しみ」を味わうこと自体がないわけです。だったら、検査でわざわざ癌を見つけて、激烈で辛い治療を無理に受ける必要って本当にあるのでしょうか?…
(周りからお叱りを受けるかもしれませんが、あえて一歩踏み込んで言わせていただくと…)ぶっちゃけ、“癌そのもの“よりも、“多くの人がガン治療で!苦しんでいる“という現実のほうが、はるかに深刻なのではないかと感じています。
従いまして、何の自覚症状もない(またはさほど自覚症状もない)段階での健康診断や積極的な治療って、本当に必要なのか?と疑問に思う今日この頃でした。
3月後半にまでなっても、降り続くしつこいしつこい大雪にチョイとばかしイラっとしたので、少し毒を吐くようなブログ記事になってしまったかもです。最後までお読みいただき、ありがとうございました(^^;)。
◎参考文献:近藤誠先生と同じ考えの医者【第570回】(ヒデキとモリヨのお悩み相談)